2度の身元確認を経験して

私は、被災地に到着した日、あまりの惨状ぶりに言葉を失った。「原発の問題もあるのだから、家族のために思いとどまれ」と、最後まで心配して止めてくれた友人、心配しつつも送り出してくれた先輩、たくさんの物資を託してくれた同級生、スタッフに、報告をしなければと思いながら、辛くて電話することもできなかった(一日でやめたいと思った)。
 一昼夜たち、なんとか奮い起こして、伝えなければ、と、使命感のようなものに突き動かされて、思いのままに書きなぐり、この原稿の元となる文章を書き、同級生に送信した。まさか、こんなに皆さんから問い合わせ、質問が来るとは思ってもみなかった。

  2011年3月11日午後2時46分。
その時を出張先の東海大学八王子病院口腔外科外来で迎えた。突然始まった激しく恐ろしい揺れ。「きゃぁ~」という悲鳴と共に逃げ惑う外来の患者、スタッフたちに「大丈夫!ここは大丈夫!」と叫びながらも、心の中には「ついに来たか!これはまずい!」絶望感がよぎる。誰に対してか、何処に向かってか、もう終われ!これ以上大きくなるな!止まれ!静まれ!、、、祈るしかなかった。
 やがて、騒然とした外来に少しずつ落ち着きが戻り始めた頃。きっとこれは何処かで大変な事が起こっている。ふいに私は、使ったことのない携帯電話のテレビのボタンを押した、目に飛び込んで来た光景は「震源は宮城沖、大津波警報」の文字とアナウンサーの「避難してください!」と繰り返す緊迫した声、そして、その背景には真っ黒な影が町並みを次々と飲み込んでいく見たことのない津波の映像だった。えっ?これは本当か?眼鏡を取り出し凝視する。夢じゃない!? その晩、八王子駅前のホテルのロビーで過ごした時から、日常が非常へと切り替わった。私の心はその時決まった。

 25年間の思い
1985年夏。25歳、歯科医師になった年に日航機墜落事故があった。
丁度歯科医師になって初めて頂いた夏期休暇、伊豆に向かう途中、カーラジオで事故を知り、夕空を見上げた。法医学をしている叔父の顔が浮かんだ。歯科医師になった自分にも、今、何かできることがある、一度は車をUターンさせ御巣鷹山に向かった。が、結局伊豆に行ってしまった。そのときの自分への腹立ちをずっと抱えて生きてきた。阪神淡路、奥尻島、新潟中越地震と、、いつだって、行かない、行くことができない理由は山ほど作れる。きっとできることがある。誰かのお役に立てることがある。次はどこでも必ず行くと決めていた。それが今回の東北となった。

 震災6日後に現地に向かう
翌日より準備に入り、震災6日後の3月17日, 身元確認の協力医として神奈川県から石巻に入ることになった。宮城県歯科医師会のご許可の下、青葉警察署より緊急車両の指定を受け、有志の先生方、商店街の方々、当院スタッフが用意してくれた支援物資を積み込み、夕刻横浜を出た。東京の小宮山彌太郎先生(千代田区開業)のオフィスに集められた支援物資を更に積み込み、東北自動車道を北上した。液晶テレビからは連日水素爆発を起こした原発の枝野さんの会見の放映。それを気にしながら、福島に入り車の換気を内循環に。路面は応急に繕ってはあるが次第に道路の段差、うねりが激しくなり、70㎞以上は出せなかった。宮城に入るとあたり一面の大雪、指示通りスタッドレスに換えてきて良かった。気温は氷点下3度。仙台泉宮城インターで下車、お世話になる知人宅は仙台市街からは10分ほど離れていた。震災の影響はさほどでもなかった地区だが、電気は昨日やっと開通、水道、ガスは未だ復旧の見込みなしという状況だった。時刻は深夜0時半 外気温は氷点下5.5度。

現場・石巻の惨状
 翌朝、同行する我々3人は 宮城県警本部に向かい、山形県歯科医師会、東北大学歯学部からのボランティアと合流。私達の担当は宮城県第二の都市である石巻、前日だけでも300体の遺体が運び込まれたと報告を受ける。8人4組体制。担当の先生より身元確認の手順、デンタルチャートの取り方の説明を受けた。地元宮城県歯科医師会の災害対策担当の先生が県警で指揮を執られ、各所への人員の手配、調整をされている。「身勝手な行動は慎むべきで、統括する場所を一つにしないと混乱する」とのお話。まだ統制が取れていない状況も感じ取れる。全体として連絡は比較的取れているが、携帯電話の繋がらない地域がほとんど。出動にあたり、警察の車両に支援物資を積み込んだら人が乗れなくなり、私の車で移動することになる。車中同行した岩手出身の朴沢先生は過去に雫石の日航機墜落の際にも、身元確認のボランティアに参加された経緯をお持ちであり、車の中で当時の状況や検視方法をお聞きし、心の準備をした。
道路の破壊が激しく、仙台から石巻まで通常なら30〜40分と聞いていたが、1時間半以上を要した。石巻の海に隣接した地域は、地震 津波の直後 街が火の海になり二日間焼き尽くされた地域。荒廃した町並み、家、瓦礫の山、点在する車、焦げた臭いの空気、オイルの臭い。昨日からやっと自衛隊が入り道を造ったという状態。更なる先の牡鹿半島は未だ自衛隊が入ることが出来ない状況全く手つかずの状況と。遺体安置所は石巻旧青果市場。外には家族の安否を気遣い、多くの人々が詰めかけている。地震直後から安置所になっていた会場が400以上で収容不可能となり新たに安置所を設置とのこと。既に300以上の遺体が安置されていた。安置所入り口に我々の車以外に7、8台の車が停まっている。自衛隊車両、宅配便車両、軽トラック、郵便車両、、荷台には何人もの遺体が検案検死を待つ。

 そこでの光景は、筆舌に尽くしがたい悲惨なものだった。
外に張り出された遺体の顔写真、特徴を食い入るように見つめる人々、もう、いくつもの安置所を探し歩き、疲れて座り込む人。安置所での1週間ぶりの悲しい対面。おかあさん、おかあさん、おかあさん!どうして、、、 号泣する子供、家族。子供を亡くし、安置所で対面して、放心状態の母親、、、、、 夫の変わり果てた姿を目の当たりにしながら近づけず、その場に泣き崩れる婦人。
 もし自分の家族だったら、なんて思うこともなく、涙が止まらない。悲しくて、悲しくて、せつなくて、無情で。この目で見たことは決して言葉で表現できるものではない。
 雪まじりの外の寒気よりも冷たく重い冷気に押しつぶされそうになる。時間は午前10時過ぎ、気温は1度、凍てつく寒さの中、外で着替える。用意してきたスキー用アンダーウエアー、真冬のゴルフウエアー、その上に上下別のカッパ、さらにディスポーザブルのオペ着、老眼鏡、帽子、長靴、グローブ。携帯カイロを二つポケットに、その姿で中に入る。中ではすでに警察官による検案検視が始まっていた。東北大歯学部、山形県歯科医師会の開業医の先生方(車で片道3時間以上かけて)がボランティアとして参加していらした。地元(石巻)歯科医師会は 被災の状況から機能出来ない状況らしい。連絡もつかず、要請するどころか先方からの連絡も全くない状況とのこと。ご家族は無事であったが診療室は流されたというご自身も被災者である先生がボランテアとして、被災から1週間も経っていない時に参加されている。帰れば家族も自宅もあり、物資も豊富な自分が、今、しなければならないことを改めて肝に銘じる。まず、チャートを受け取った時点で、用紙が県警で説明を受けたものと異なっている。当初から想像はしていたが、チャート、写真、レントゲン撮影法、その他教科書的なことは役に立たず、もちろんレントゲンなんてあるわけも無し、だからどうのこうの言う間もなく、二人一組ということで 同行の朴沢先生(仙台開業)と組んで開始した。スマトラを想像してぱんぱんに腫れ上がった顔を想像していたが、避難所にいらっしゃる方々にはつらい寒さも、遺体には良い環境だったようで損傷が少なく、驚くくらい非常にきれいな、そのまま寝ているかの様な状態。打撲の後はあるが手足もそのままの方が殆どであった。だからこそ、自分の子供や親を想像して涙が止まらなくなる。法医学の先生によると多くは溺死とのことだが、津波の際の材木や車、波の勢いで、瞬時に意識をなくしたのでは?と思えるくらい水を飲んでいる感じがない。痩せている方も太っている方もそのままなのでは、と。
 検案する前にメンバーで合掌、それから開始。死後硬直があり開口は困難、石膏スパチュラで隙間をあけて、隙間に開口器を入れる。前日氷点下でもあったため冷たい。指先は5分で感覚が無くなった。診査と記載で一組。だがこれは大変で、東北大学はすでに3人1組で、一人が照明と介助、診査、記載。これが効率よく、衛生面でも良い。二人では記載者も介助になりその手で記載することになる。汚れるので感染症も心配だ! 最初の2分で衛生面の分離はなくなった。眼鏡は曇ってその間から視るしかない。そうしている間もなく、次々とひきっりなしに自衛隊のトラックで運ばれてくる遺体。検案、検視の済んだ遺体のなかで身元が未だわかっていない方を歯科医師が順番にみていくことになる。当初は毛布に包まれた遺体が多かった。検案検視では発見された場所や推定の年齢と番号が記載されている。所持品と衣類は別のビニール袋に入っている。途中から地元のボランティアの先生に照明、介助を担当して頂くと効率が良くなった。
 空いた時間に今までのデンタルチャートの清書をするためセンターのデスクに向かい再確認、シェーマの仕上げをする。頻繁に起こる余震の度に安置所の高い天井を見上げ、頭の中には津波の光景がよぎる。

報道では伝わってこない 臭い、音、そして光景と涙
 震災は 午後3時頃だったので子供達は学校、父親は仕事、母親は買い物、祖父母が自宅で孫と一緒、幼稚園の帰宅という時間帯だった。家族みんなが離ればなれになってしまったのだろう。石巻では学校は高台にあったので、学齢期の子は助かったのかもしれない、安置されている方の多くは年配者、乳幼児。避難する時に、寒かろうとおばあちゃんがたくさん重ね着をさせて、長靴の下には靴下も何枚もはいて。あまりに突然の大水にきっと、すぐに気を失ってしまったのだろう、ほとんど水ものんでいない、ただ、眠っているような白い小さなお顔。次々と運ばれてくる小さな遺体に、突然涙で手が止まってしまう。こんな小さな子、おかあさんがなんですぐ探しにこないんだ! わかっている。そう、この子を探しに、両親も祖父母も、、決して、来ることはない。
指先どころか手の感覚がもう寒さでなくなっている。仙台でもこんなに寒い3月は珍しいとのこと。眠るようなご遺体をこのまま守ろうと仙台の冬が戻ってきたのかも知れない。

*身元確認で感じた事・役に立つもの
1)人員3名一組
  衛生、清潔面や感染のこと、診査の効率、精度を上げるには、2人では充分と言えない。
  (法歯学の専門の先生は2人で大丈夫)
2)ライト(できればLED)ヘッドライトがベスト。
3)石膏スパチュラ(硬直しているので最初の開口の隙間開けに使用)
4)開口器(歯のある人は横からカチカチとロックしながら開けるものが良い)
5)ガーゼ(口腔内は泥、水があって視野が悪い場合が多い、脱脂綿はダメ)
6)歯ブラシ(砂などで汚れているので必要、あまり硬くない方がよい)
7)探針
8)写真撮影用のメタルのミラー(診査に使用。もちろんデンタルミラーでも良いが大きめのものが便利。)
9)アルコールワッテ(ミラーを拭くための)
10)霧吹きスプレー(水を入れて診査器材に吹き付けると汚れが取れやすい)

*デンタルチャートの記載について
1) 検案は、量より質を重視すること。詳細に記載することが重要な手がかりとなる
  (特徴をつかむことで広域の災害の場合は患者さんの通院していた医院もわかりやすくなる)
2)クラウンは薄く塗りつぶしたほうが良いと思う。義歯の鉤歯となる歯がクラウンとなっている場合があり
 クラスプの記載と重なり判別しづらくなるので、、、他にもいろいろあるが、ノウハウはこなしていくとわかってくる。
 最低でも事前に日本歯科医師会のチャートの記載要項は見て覚えて行くと良い。
3) 具体的なチャートの記載だが、狭い欄に、限られた時間に、かじかむ手で記載するのは大変だった。
 また、健全歯・レジン前装冠等書くだけでも時間がかかる。
 略語または記号だと本当に助かる、かえってわかりやすいと思う。
 その分、シェーマの記載に時間ができ診査して読み上げる先生との流れも良くなる。
 効率が良くなれば、診査の情報も多く記載することができる。このことは身元不明の患者さんの一人でも多くの
 判明につながることと思う。きっと協力医の皆さんが思ったことだろう。
 午後5時半、全員で線香を上げ、合掌して終了。仙台の県警にて報告後、友人宅に戻ると9時をまわっていた。
 もちろんシャワーもない。5日間であったが、布団に横になれるだけで、暖かいお茶が飲めるだけで有り難かった。


 物資を避難所に届ける
被災者の方々は、私たちの次元どころではなく情報が全く入っていない。何処で何があって、どうなっているかも。原発など気にしている間もない。そんな事より家族、知り合いの安否は? 寒さ、明日の食事は、、?避難所の張り出しの多くは、家族、親戚の安否を伺う、報告、連絡するものだった。点滴、紙製品、毛布。車から降ろしているとボランティアや看護士さんたちが走ってきて、何度も何度もお礼を言って下さる。当たり前にあるものが行き渡らない。交通、通信の断絶で、我々が当たり前にできること、しなければならないことができない。お礼など、言って頂けるようなことは何もしていない、できていない!自分の無力さと無念さの中、帰路につく。

 再び現地へ
4月8日(金)前回の石巻の南に位置する東松山地区の検案検視、身元確認照合に赴く。この野蒜地区は街全体が壊滅した地域でもある。道や人々の生活は回復にあるものの、瓦礫は未だに手つかずの状態であった。避難所と安置所が隣合わせで、行き来をする人々も見かける。こちらでは新潟県歯科医師会からのボランティアの先生と合流となった。今回は海や水の引いていない田畑からの遺体が多く、魚介類により軟組織が荒らされた遺体。瓦礫の下からは下半身がつぶされた遺体等、震災直後の眠るような遺体とは様相を異にしていた。顔は一様にドス赤黒く腫れあがっている。遺体の損傷が激しく、腐乱がすすんできていて、判別が厳しくなってきていた。所持品で警察が判断して家族と対面となるが、お顔を家族4〜6人でみても首を傾げる事が殆どであった。歯科の役割が非常に重要になってきている。歯科の照合で判別した方が多くいらした。照合は責任ある作業であった。たとえば、口腔内チャート記録で5欠損とあったが、カルテは健全歯と? 照合で一致せず、矛盾ありとなり、再度遺体を確認させていただく。舌側の触診で指先に硬組織を触れる。5番の舌側転位歯を確認。泥で視野が悪く見えなかったのだろう。5番が欠損していて、6番が近心傾斜しているときはあれっ?と感じる臨床の経験も役に立つ。これが最後の決め手となり本人と確認ができた。
 また、2,2等の舌側転位とか、3番唇側転位(八重歯)、正中離開等の本人の特徴(家族、友人が覚えていそうな特徴)となることは必ず網羅することが大事だと実感。水に浸かったカルテからも照合できた。日常のカルテの記載はきっちりしなければ、と私も反省。(口腔内写真を普段から撮ることは、何より良い)きっとこれから先は判別が困難を窮めることであろう。一般歯科医ではなく、法歯学専門医の出番ではないだろうかと、我々のできる領域を知る。レントゲンや口腔内写真も必須になるであろう、とも思った。
 対面は皆が辛い場面だ。幾度となく時空を共にした。休憩の際に呼び止められ、先ほどはありがとうございました、と遺族の方から深々と頭を下げられると、うつむくだけで涙が止まらなくなる。
 前回 科学者の一人でもある私は、ぶつけるところのない悔しさに「神よ、あなたはどうしてこんなことをするのですか?」と何度も心の中で繰り返していた。そんな心境にもなることを思い出した。今回改めて、「神様なんていないよ」と。だって、こんなに惨いことするわけがない。
 線香の臭いが鼻についた前回と異なり、今回はその香りの意味をこの年齢になって初めて知ることになった。遺体の腐敗臭は何よりも線香の香りで癒された。遺体が傷むことを防ぐ方法が無かった大昔、亡くなられた方との別れを惜しみ少しでも長く安置したい、その哀切な時間を芳しく包むために、必要不可欠であったのだろうと。

 百の見聞は一経験にしかず。
一人でも多くの方を家族の元へ。その思いだけだった。
何日目であっただろうか、昼の休憩の際、大学の1級上の北村信隆先輩(新潟県開業)に卒後25年ぶりでお会いする。マスク、帽子、眼鏡をしている為、半日一緒にいて気がつかなかった。前回もそうであったが、全国から同じ思いで集まった多くの歯科医師が現地で真剣に任務にあたり活躍されていたことを改めて報告します。
 いったい今、行かないでいつ行くのだろうか? また起こるやもしれない事象に対して少しでも多くの先生が経験し、あの現状を実際目の当たりにすることは、今後の日本の為に、歯科医療の為に、人々の為に大切なことと思う。私だけでなく、今回の震災に対して医療人としての使命感から志を抱いた多くの先生方が、自分のリスクを省みず、長年携わってきた歯科医師として出来るお手伝いをしたい、泊まるところなんて何処でもいい、雑魚寝で構わない、寝袋で布団などいらない、ご飯など食べなくても、カップラーメン持って行けば、、、今か今かと待機していらしことをお伝えしたい。今後、形は変わっていくものの、そういった先生の思いを無駄にしないよう、地元の歯科医師会、日本歯科医師会などが連携し、被災者、現地の先生方の気持ち、状況も理解した形での支援が進むことを、切に祈っている。できる支援は様々な形で山ほどある。

 震災から半年、未だにあの状況に戻る。におい、音で蘇り、夢でも見る。遺体の身元確認は、歯医者になって、歯科医師として私が経験した中でもっとも悲しく辛く過酷なことだった。同時に、僭越ながら、歯科医師にしかできない、崇高な、そして社会、人々にとって重要な役目を少しでも果たせたのではないかと思っている。

震災を通して歯科医師の真価が問われているのではないだろうか
 多くの人が この状況で何ができるだろう 何かせねば、、、、 考えた、考えたことだろう。 震災のマイナスからフラット(医療の大半が治癒と見なす領域)からさらに、プラスを目指して。私はQOLを支える歯科医療のコンセプトが震災後の日本に大きな力を持っていると思う。色々なものが満たされていた時代の中で、あの時を経験した私たちは、ここから、歯科医療に従事する人間として大きく変わることができる、社会に、患者さんに、若人に示すことができる。歯科医として、医療の中の口腔を担当する者として、支援、義援だけではない。毎日当たり前にやってきた臨床、そして一人一人の患者さんに対しても、本来の歯科医療とはどうあるべきか、社会に貢献していくこととは何であるか、今何をすべきか、本当に大切なことは何なのか、原点に還って考え、そして行動する時なのだと思う。
 今こそ真価が問われている。
歯科医は確かに命を救うことに携わることは少ない。が、心を救うことをずっとしてきたのではなかったか。口腔がんの治療を経て、顔面の癌摘出後の患者さんの人生に幾度となく触れて、生命とは生活だと知った。 生活があるからこそ、人は生きている。晴れた空や、満開の桜や、旬の食べ物を、共に喜ぶ人たちとの関わり、案じ合う思いやり。歯科医だからこそ、食の面から、人々の生活を支えることができる。悲しみの中で、桜の開花や子供たちの笑顔が、一瞬心を和らげてくれるように、一口の味わいが全身に力を沸き起こしてくれることを、私は支えて行きたい。そんな歯科医でありたいと今、考えている。
 私ごとながら、改めて健康に日々生きていること、そして歯医者になって良かった。この仕事を続けてきて良かった。そして両親に、ご指導頂いた先生に感謝している。
 最終日に震災直後の津波を携帯のテレビで視た名取川に立ち寄る。震災前の風景を知らない私には、この風景が名取川。故郷を再建してゆくここに住む方々に、これから自分にできることは何だろう、し続けていかなければならないことは何だろう。生涯にわたってできる支援を行い、この東北が力強く復興していく姿を見届けていこうと思っている。